更新世末期、何度目かの氷期が終わり、気候は次第に温暖になりつつあった。しかし本州中部の標高1300mを越す高原地帯には、まばらな針葉樹と背の低いハシバミの木が所々に見えるのみで、足下には湿った草原が続いている。あたかも、現在の標高2000m地帯のような様相である。 ここから一晩ほど北西に歩いた山中には、人々が刃物を作る材料があった。後に黒曜石と呼ばれる「黒く光る石」である。人々は工夫をかさね、棒の先に削ったシカの骨を固定し、さらにそこに「黒く光る石」を加工した小さな刃を埋め込んだ槍を作った。そして、夏の間、獲物となるシカの多いこの高原で狩りをして暮らしていた。 ハシバミの葉も色づきはじめたある寒い朝、北の山々から吹き下ろす冷たい風は、草原に佇む1人の青年を容赦なく襲っていた。まだ十代半ばの青年は、この強風に身じろぎもせず、「黒く光る石」を埋め込んだ槍を手に、黒いマントをたなびかせている。 彼のマントは、特別であった。それは、自分がよく知るシカとは全く違う大きさ、容姿、習性をもった「大鹿」の毛皮と伝えられているのである。しかし「大鹿」の姿が最後に見られたのは、もう遥か昔。彼自身も生きた姿を見たことはない。それは、既に伝説になりつつあった。 彼は今日も家族の食料となる動物を追っている。運が良ければシカに巡り会えるだろう。いや、もしかしたら。彼の追い求める「大鹿」が姿を見せるかもしれない…。昨年死んだ父親から受け継いだ黒いマントは、過ぎし日のビックゲームハントの記憶。彼の想いは、伝説の中にあった。 もうすぐ雪が降る。この高原を降りる日も近い。 -------------------------------------- 長野県東部、標高1300m前後の野辺山高原には、矢出川遺跡や中ッ原遺跡など、約17,000〜15,000年前につくられた細石刃の出土する遺跡が点在する。細石刃とは幅1cm以下の小型の石刃で、植刃器と呼ばれる動物の角などに埋め込んで使う「組み合わせ道具」の刃の部分である。日本列島における旧石器時代の終盤に位置付けられる。また、ここ野辺山付近では、同じ細石刃でも東日本に多い北方系の湧別技法と、西日本に多い矢出川技法という異なった制作技法が確認され、東西文化の交流地点とも言われる。 石器の素材としては、黒曜石が多く用いられた。火山性のガラスである黒曜石は、野辺山高原から約20km北西の八ヶ岳北部や、さらに西の霧ヶ峰付近に分布する。また、野辺山高原付近は近年までニホンジカの良好な狩猟場であった。現在でも近辺の山間部ではよく目にする。つまりは石器の材料である黒曜石の原産地に比較的近く、しかも良好な狩場であったのだ。 しかし、やはりここも寒冷地には違いない。現在でも時に氷点下20度を超える冬の寒さ、ましてや氷期であり、無論さらに標高の高い黒曜石原産地での活動はより困難だったはずだ。そこで、冬期は約100km南方の南関東地方に向かって移動するような、広域の遊動生活を考える向きもある。実際、関東地方の諸遺跡では、長野県産黒曜石の出土が確認されている。 尚、日本に生息したヤベオオツノジカは肩の高さ約1.7mで、巨大な掌状の角をを持っていた。最近では、今から約2万年前以前には絶滅したとされるが、もっと最近まで生き残っていたという見方もある。 主な参考文献 ■ 冨田幸光・伊東丙雄・岡本泰子 2002『絶滅哺乳類図鑑』丸善株式会社 ■ 堤 隆 2004 シリーズ遺跡を学ぶ009『氷河時代を生き抜いた狩人 矢出川遺跡』新泉社 ■ 堤 隆 2011 『列島の考古学 旧石器時代』河出書房新社